1978年「飛んでイスタンブール」の大ヒットで大晦日『第29回NHK紅白歌合戦』に初出場し、
同年「モンテカルロで乾杯」「マスカレード」、1980年にはCM曲にもなった作詞作曲歌唱の
「Hey Lady 優しくなれるかい」がヒットし、TBS「ザ・ベストテン」に出演していた
庄野真代さんはiPhoneも携帯も無かった1980年4月12日、成田のVIPルームで記者会見をし
世界一周バックパックの旅に出てしまった。
この旅こそMAYOと僕らが全青春を注ぎ込んだ「庄野真代のTHE世界漫遊記」(サンケイ出版刊、1982年)プロジェクトだった。
あれから40年以上も経ってしまった古いデータやエアメールがごっそり事務所から出土!
した
最初の写真が「マサイ族とMAYOとラジカセ」写真なり。
撮影filmはコダクローム64デイライトタイプ。退色しない外式発色現像ため当時の色が蘇る!
40年近くの時を経た「庄野真代のThe世界漫遊記」(サンケイ出版刊1982年)を電子書籍ではなくWEBで面白く表現出来ないかと思い、仕事の合間に資料整理をしながらアップする予定。
結構大変なデータ量なり。
メールも無い1980年のなんとも不自由で自由な「旅」の通信手段は絵葉書とAerogramme。
しかも通信速度は下り7〜10日。
こんな環境でTBSのベストテン中継やコニャック取材などブッキングしてスケジュールは何度も上書き変更された。
僕のブログ「インターネットもクレジットカードも無い1973年、バックパックとニコンFで格安世界一周 写真旅」も世界中から未だにサイトへのアクセスが途切れないし、MAYOさんへのファンレターも、本持ってヨーロッパ行きました。この店の住所教えてなど結構あるそうだ。
当時の格安海外旅行ガイドブックといえば「THE 1973-74 EDITION OF EUROPE on $5 and $10 A DAY」が元祖と思っていたら、1955年に著者のARTHUR FROMMERがGIジョーのためのガイドブックを自費出版していたらしい。
僕のおぼろげな記憶は一部のアメリカ人のバックパッカーが列車の通路やユースホステル、駅のベンチや列車案内の下でのぞいていたトーマスクック時刻表かなぐらいの認識だった。
帰国後「DO CATALOG U.S.A.」ってムックを作っていた75年ごろデザイナーのM崎さんが見せてくれた、1日10ドルに値上がりしていた「EUROPE on $10 A DAY」だった。
1955年に著者のARTHUR FROMMERがGIジョーのためのガイドブック。自費出版
1957年「EUROPE ON $5 A DAY」創刊号
こんなのもあった。Japan and Hong Kong on Five Dollars a Day/協賛JAL
1967年は「EUROPE ON $5 A DAY」
1973年は「EUROPE ON $5 AND $10 A DAY」
バックパッカーのための現地踏破の詳細イラストタウンマップつき格安旅行ガイドを目指し、
「カイロの愛しのクヮレンティーナホテル(隔離病棟)」「やってきましたイスタンブール」
「パリの地下鉄メトロライブ」などMAYOブログに加え、
貧乏旅行のための基本12か条、
安い切符の探し方、盗難防止法、庄野真代の採点付きユースホステルガイドなど旅の豆知識満載本。
サイズはバックパックのサイドポケットから出し入れしやすい130W×260H㍉に決めた。
「庄野真代のTHE世界漫遊記」1982年4月1日サンケイ出版刊
著者:庄野真代
写真・イラスト:小泉正美
企画・構成:西田圭介
時を戻そう。
MAYOと旅する 1980年
バックパックで世界一周・11カ月間・140都市
二人でなんと250万円!
200万円のトラベラーズ・チェックをしっかり腰にくくりつけ日本を出発、LAに辿り着くまで28カ国、140都市。途中で50万円補給したけど、食べて泊って移動して、よくやりました。
★ ギリギリで貧乏旅行するための基本12か条
★ 頭を使っていかに安い切符を探し出す法
★ 怖いけれどども、あえてヒッチハイクのすすめ
★ 盗難防止法
★ 世界のトイレ事情
★ 真代の採点表付きユースホステル・ガイドほか
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よ〜いドン
80/04/12
「いつかのんびり気ままに旅をしようね」
これは結婚した時から二人で決めていたこと。
それが実現しそうになったんのは出発の一年前。 パンナム(1991年12月4日に会社破産し消滅)が80日間世界一周のクーポンを、
30万円ちょっとで出していることを友人から聞き、
その気になったのだ。
PANNAMのクーポンで80日間世界一周のつもりが⋯⋯
まぶた君(ダンナ様のニックネーム⋯⋯ まぶたがはれぼったいから)は、その日から資料集めに走りまわった。まず、各国の観光局を周り、カタログをいっぱいもらってくる。
そしてトーマスクックの時刻表を買い、読み方をマスターしてヨーロッパの移動スケジュールを立てる。
そのうちに三か月では無理というほど、旅の計画が膨らんでしまい、遂にパンナムの80日間世界一周クーポンはやめにして、他のチケットを探すハメに。
まぶた君は熱心に毎日、旅行日程を作り変えて見せてくれる。私は昔から計画性がないので、こういう念入りなことって気力が続かない。なのに、出来上がったスケジュール表を見てああだ、こうだと文句をつけるんだから全く勝手ね。
さあて、この計画三か月から半年に伸び、一年に延び、「いっそのこと旅の最終地をロサンジェルス
にしてカリフォニアライブを⋯⋯」というところまで発展してしまい、本人もなんだかよくつかめないまま出発の日が来てしまった。
バックパック担いで生まれて初めての合同記者会見に向かう
1980年4月12日。トコロは成田空港VIP室。生まれて初めての合同記者会見を敢行。なにせ初体験、 たくさんのカメラをこちらから写そうと記者に向かってシャッターを押したけれど、あれはちゃんと写ってたんだろうか?
「どうして旅に出るの?」って質問が多かったけれど、特にかしこまった理由・理屈はない。「旅をしたかったから」── それ以上のことは、旅を始めてからわかることかもしれない。
人生に希望をなくしたとか、自分を見失ったとかは全く無関係だし、いい曲を作るためため
でもない。ましてや歴史研究家でもないし、旅行評論家でもなく、普通の青年旅行者。
それも今出来る旅、足を使って、頭を使って、体を使って、今しか出来ない旅をしてみたかっただけなのだ。
搭乗ゲートに入っていこうとした時の見送りの友人たちがみせたなんと心配そうな心配そうな表情!
そのうちの一人ナヲちゃんなどは急に涙をいっぱいためて「死んじゃダメよ」なんて抱きついてくるもんだから、すっかりもらい泣きしちゃって、ずいぶんと湿っぽいスタートになってしまった。
涙はみんなにバイバイしたあとも依然止まらず、税関でハンコをもらうあたりに絶頂となり、すすりあげて機内の人となった。あ〜あ、やっぱり日本人。
もっとハッピーに出発すればよかったなあ。
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