1970年ごろ初訪問した
不夜城ケーツー(K2)で出会った
長友啓典さんの笑顔と「え〜やないの」を改めて想い出した
トモさんを偲ぶ会
27 jul. 2017
写真は渡辺達生さん撮影「え〜やないの」が聴こえる
日暮真三さん伊集院静さんの追悼文
アートディレクターという聞きなれない職業を知ったのは進路を決めかねていた高校3年の時、
目にした新聞記事だった。
東京オリンピックを経てデザインがこれからの時代を牽引する職業と書いてあったが、
デザイナーがどんな仕事でアートディレクターは何をするのか全く理解できなかった。
数年後の’70年ごろ、週刊サンケイの表紙が和田誠さんのイラストで
田中一光さんのアートディレクションからK2の長友啓典さんに変わった時、担当編集者に
「おい西田、長友さんのところ行ってみたいか」
即答でついて行った。
これは僕の人生を変えた「大きなギフト」だった。
以来エディトリアル・デザインのことを学ぶため、
写真部の仕事が終わり次第、
深夜~早朝にかけて編集部や大日本印刷の出張校正室で整理部の見習いをした。
当時、「納める」整理と新しい世界を作り上げる「デザイン」の違いを少しづつ学ぶことができた。
同じ「ケイスケ」つながりで勝手に親近感を感じて、進んで原稿取りに行っていた。
その後80年代「GORO」「写楽」全盛時代、
担当していたESSEのリニューアルをきっかけにデザインをK2ファミリーにお願いして以来、
入稿や打ち合わせで毎晩六本木に通った。
忘れられない衝撃のシーンを目撃したことがある。
黒田征太郎さんが事務所に現れると元旦掲載用の全15段新聞広告の版下が会議室の床に置かれた。
覗き込んで見ると不定形の余白がある完パケの版下をしばし見つめた後、
黒田さんは墨を含ませた筆で一気に干支のイラストを描き上げた。
黒田さんのタッチを予測?した素晴らしいアートディレクションが完成した瞬間だった。
この時の学びから特集のイラストなどノドを渡った不定形のスペースで
イラストレーターさんにお願いし、動きのあるいいページを創ることができた。
もう一つの思い出は大阪のFM802開局に合わせた名刺。
特別展会場で久しぶりに再会した元上司だったI原取締役が大阪に異動し開局することになり
創業に必要なロゴと名刺を長友さんにお願いした。
出来上がったロゴを見てビックリした。
黒田征太郎さん手書きのカラフルロゴ。
しかも事あるごとに黒田さんが描き下すロゴ。K2でなければできないCIだった。
準備期間中の名刺は不肖私が。
六本木の事務所で深夜の打ち合わせでは滅多に長友さんとお逢いできなかったが、
多くのスタッフと一緒に深夜食をご馳走になったり、
香港への社員旅行や花見やイベントで楽しく仕事できた皆さんとの出会いも、
長友さんの笑顔と「え〜やないの」のおかげでした。
本当にお世話になりました。
写真はトモさんを偲ぶ会(内覧会)で
追悼!「長友啓典」特別展
ギンザ・グラフィック・ギャラリー
7/28〜7/29 11時〜19時
____________________________________________
横山大観や下村観山らのある提案で建てた
谷中霊園に面した旧平櫛田中のアトリエに
雑巾がけに行った
23 jul. 2017
寺町・谷中界隈は、江戸の頃より絵師や工芸職人らの住む町だったが、
明治期に上野の杜に開校した東京美術学校により画家や彫刻家も多く住み始め、
近代美術文化を育む町だったらしい。
Googleが示す小道が分かりづらく近所の交番や住人に聞いても誰もわからなかった。
ポリスは住所さえわかればこの地図で探しますと言ってくれたが
馴染みのないスポットになっているようだった。
旧平櫛田中邸のアトリエは谷中霊園に面した
旧下谷区上野桜木町44番地(現上野桜木2丁目20−3)の路地奥にあった。
それまでは谷中の長安寺近くの二軒長屋の一軒を住まいにし
制作は長屋の隣に立てた4坪の作業場を使っていたが、
大正8年(1919)に大作「転生」制作のため、より大きい空間が必要になった。
この辺りならではの酒屋と自転車屋のハイブリッドな店
50代まで貧困を極めた田中に、
その頃親交のあった日本画家、横山大観や下村観山ら日本美術院の画家が
描いた絵を売り、その金をアトリエと住宅建造の費用に充てることを提案した。
アトリエの建築は当時横山大観の家に出入りしていた大工の鳥居某により、
日中安定した自然光を得るため北向の天窓を備えた近代アトリエ建築の先駆けとして建てられた。
3年後の大正11年(1922)傍らに伝統的日本家もでき家族とともに
小平に転居する昭和45(1970)年まで増改築をしながらここで暮らし制作に没頭した。
旧平櫛田中邸のアトリエ建造時の説明パネルにさらっと書いてあった友人たちとの縁や友情。
計り知れない大きいものを感じた。
扇風機と換気ダクトで床の水分も飛んだ
局番3桁の電電公社時代のプレート
後に旧アトリエ・住宅は故郷の井原市に寄贈され、現在は通常非公開で井原市の協力の元、
平櫛田中の顕彰と建物維持、新たな芸術文化の育成・発信を願って、
地域やNPO法人 たいとう歴史都市研究会、東京芸大等の有志により
掃除・修繕と公開活動が折々おこなわれる雑巾がけを友人のFBで知り初参加した。
窓から見える谷中霊園
平櫛田中という不思議な名前だけは知っていたが、
六代目尾上菊五郎をモデルに昭和33年(1958)畢生の大作
「鏡獅子」(東京国立近代美術館蔵、国立劇場展観)を戦中のブランクを経て約20年の歳月をかけ
て完成させるための「鏡獅子試作裸形」のエピソードなどを
TV「なんでも鑑定団」で知り驚愕した。
小雨まじりだったが小学1〜6年生向けの「寺子屋2017」も併催で、朝から元気な子供達が
箒や塵取り、雑巾を使ったお掃除体験やペーパークラフト作家による灯り作りの
ワークショップもあった。
ルンバ世代の親達も箒や塵取りをうまく使えず隅にチリが残ってしまう。
何度も掃除機さえあればもっと綺麗になるのにと思った。
雑巾絞りが弱くアトリエの床に薄く水が溜まるためひたすら乾拭きに専従した。
母屋にもあった天窓とすだれのブラインド
平櫛田中は、岡山県井原市で明治5年1月15日(1872年2月23日、旧暦とずれる)生まれ、
彫刻を学ぶため明治30年(1897)に上京し、高村光雲、岡倉天心、横山大観らの縁で
谷中・上野桜木に合わせて70年以上暮らした。
彫刻一筋のため生活に苦労したが、地域の人々の支えに感謝し、
谷中茶屋町に「狛犬」一対、東桜木町会に「獅子頭」、
谷中小学校に奨学金と「いまやらねばいつできる」の書を贈り
地域の鎮守「諏方神社」の扁額の書も手がけた。
戸袋の中から出てきた「獅子頭」の額は東桜木町会蔵 昭和11年(1936)
岡倉天心を生涯の師と仰ぎ、東京藝術大学内の天心坐像をはじめ日本美術院発祥の地、
岡倉天心記念公園の六角堂建立時には天心の胸像を寄贈した。
明治・大正・昭和の近代木彫の発展に尽くし、
小平市に転居後昭和54年12月30日(1979)に107歳で亡くなった。
本名は平櫛倬太郎(ひらくし たくたろう)。10歳で養子になったため旧姓が田中だったんだ。
詳しくは
____________________________________________
家庭実用雑誌「Living Book(現 ESSE)」創刊前必死に研究した「暮しの手帖」
改めて知ることが多かった世田谷美術館企画展
花森安治の仕事 デザインする手、編集長の眼
3 mar. 2017
NHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』は観てなっかったが僕が生まれた1948年、
後の『暮しの手帖』となる『美しい暮しの手帖』を大橋鎭子と共に創刊した。
編集長として取材、執筆はもちろん表紙の原画から本文のカットイラスト、編集デザイン、
新聞広告や中吊り広告の宣伝物や版下までおよそ750点が展示されていた。
1970年の特集 「純毛の時代は過ぎてゆく テストしたのはこの11種」
あたたかさ、大きさ、軽さといった点でもう純毛の毛布は、たとえ1万円出しても3千円から5千円
のアクリル毛布にはかなわない。ご本人も以後愛用していたチェコ製のアクリル毛布「Larisa」
made in czechoslovakia 100% acrylic pile タグに書いてあったメーカーを検索したが見つけら
れなかった。
1973年の特集 「料理中にナベに火が入ったら」
もし、料理中にナベに火が入ったら、どう対処すれば安全で確実に火を消せるでしょうか。
燃えている天ぷら油に直接水をかけるのは、大変危険。
実際にスキレット(フライパンにフタがついたようなナベ)を使って、火が入ったら、火元を切り、
きちっとフタをする、ぬれぶきんをかけてみるなど、一般家庭の台所を想定してできることを試して
この動画を見て思い出した。
リビングブックも「安心して天ぷらが揚げられる電磁調理器をテストする」特集を組んだ。この時、
家電大手メーカー「H社」の1製品だけがある条件で発火するレポートが商品研究所から上がってき
た。
家電製品研究室のテストキッチンで撮影した時、レポート通りオーバーヒートした鍋から炎が1メー
トル以上も上がった。
2〜3カットアングル変えて撮影、すかさず用意した防炎シートをナベにかけて鎮まったと思った矢
先、シートの端から白煙がチョロチョロと出だした。なんとそこから発火!同席していた研究員がす
かさず、水につけ固く絞ったタオルを何枚も防炎シートの上から被せてやっと鎮火した。
少し手当が遅れたら天井のスプリンクラーが作動して毎分何トンかの放水が始まるところだった。
我が家のキッチンは東京ガスの煙探知機、SECOMの熱感知機と消化器2台設置しているが、キッチ
ンで同じことが起きたら冷静に対処できるだろうか?自信ないな〜。
同展は4月18日から愛知・碧南市藤井達吉現代美術館、6月16日から富山・高岡市美術館、9月2日から岩手・盛岡の岩手県立美術館を巡回予定。
____________________________________________
Googleでは調べられない超アナログ調査の原点に触れた話。
ハピポ®のHP改修中に気づいた不明点を確かめるため、
出版局写真部時代にお世話になった
産経新聞社調査部(現在:知的財産管理センター)に電話した。
25 nov. 2016
顔見知りの先輩は定年を迎えているため、電話応対をしてくれたお嬢さんに素性や目的を伝えると快
諾が得られ久しぶりに資料室に入った。
産経新聞社調査部資料室
目的の昭和40年代の合本された週刊サンケイは資料室の一番奥にずしりと保存されていた。
探し物は作品とアトリエ訪問スタイルのカラー連載企画「サンケイギャラリー」で日本画家、
東山魁夷さんをはじめいつ、どなたを撮影(撮影助手も含め)させていただいたか?だった。
最初に手にした合本で昭和45年11月の木彫家、圓鍔(えんつば)勝三さんのページを発見!
撮影クレジットは先輩名で写真も僕の記憶と違っていた。
僕はこの日、木彫を前にしてこの作品の正面を教えてくださいと質問すると
「木彫は私の作品だけど、写真はあなたの作品だから好きなアングルでどうぞ」と言われた。
自分なりのアングルとライティングをセットしポラを切りお見せした時に
「先生この娘の頭の上は帽子ですか?髪ですか?」
ポラをじっと見て突然大きなノミと木槌を手にして作品の足場に上るといきなり頭部の一部を一撃で
欠いた。
あっ!失礼なこと言ってしまった!?
木彫家は静かに自席に戻りインタビューを続けていた。
僕が撮影した時はこの連載では無く別企画だったのか?
半世紀近い時間が流れ記憶が美化されたのか?
昨日の調査は終了。
____________________________________________
東京藝術大学大学美術館 陳列館で
ロバート・フランク
ブックス アンド フィルムス、1947〜2016 東京を観た
2016.11.14
上野公園口を降りると美術館、博物館は軒並み月曜休館。
Google Mapでも休館?アラート。そんなはずは無いはずと思いながら芸大へ。11-24 November 2016 in Tokyo 無事開催中!でした。
ロバート・フランクとゲルハルト・シュタイデルが考案した展覧会ですが、芸大生の展示アイデアが特に面白かった。
英文はゲルハルト・シュタイデル、日本語はちょっとうるさい気もするが院生が書いたそうです。
写真展をはしごする予定だったので桃林道に寄ったら月曜定休日。残念
根津まで歩いて神宮前の@表参道画廊+MUSEE Fで「リフレクション展」へ。 来廊した女子もロバート・フランク展経由だった。彼女はあの日本語が嫌いと言っていた。
入り口にあったキュレーターのテキスト「夜警」を超えて、を読んで気になった事柄をググった。風景写真の地殻変動があったらしい。
全文はここにあり
https://www.facebook.com/curationcriticism/posts/1170912566290711
展覧会は
http://reflection.mmproj.com
最後は写真ギャラリーのメッカ新宿御苑の
Photo Gallery Place M(夜の写真学校、レンタル暗室併設)で
「Koji Fukuzaki Exhibition epheemere」 11月20日まで
http://www.placem.com
写真はスマホか携帯があれば内臓カメラの想像を絶するアルゴリズム進歩のおかげで、
誰でも何処でも撮れてソフト不要で世界中に発信できる時代。
シャッターを押した人の衝動次第。
____________________________________________
「60〜70年代 現代美術 俯瞰展」を撮った。
20 Apr. 2015
好奇心の塊だった20代の60〜70年代、
ニコンFに映画用100フィート缶から手巻きしたモノクロ高感度フィルム KODAK TRI-Xを詰めて
凮月堂やジャズ喫茶、新宿2丁目から南口甲州街道陸橋脇をウロウロしていた頃
すでに演劇、舞踏に写真、映像、現代美術‥‥‥各界で活動していた大先輩の一人
ヴィデオ作家の小林はくどうさんのお誘いで
「60〜70年代 現代美術 俯瞰展」に行った。
篠原有司男さんと出会った2年後の1975年作、段ボールのオートバイを初めて撮った。
60年代頃からの美術運動は、
旧弊を打ち破るために幾つかの小グループが撹乱しました。
表現の違いこそあれ、その時代を考え、人の立場から人間とは何か!を考慮したものでした。
が、美術史の中に埋もれてしまいつつあるのも、現実です。
近年の若い作家たちが当時のことを知ることも知る社会も無いことを、密かに危惧しています。
美術運動はひとつひとつお達成の上に次の展開へと繋がっていくものと信じ、
今回の展覧会を企画することにしました。
実行委員会/曽根原正好・瀬戸栄美子・川谷登 ギャラリー川船
▲ 篠原 有司男 : ネオ・ダダ・オルガナイザーズ
吉村益信、赤瀬川原平らとネオ・ダダ・オルガナイザーズを結成。抽象一辺倒だった美術界に新鮮な息吹を吹き込んだ。最近のドキュメンタリー映画「キューティー・ボクサー」で美術界が盛り上がる。63年のイミテーション・アートや花魁シリーズ、ボクシング・ペインティング。
▲ 小島 信明 : 読売アンデパンダン
読売アンデパンダンで活躍した作家でネオダダとの親交が非常に厚かった。「無題」と称する布を頭から被った男の立体などはあまりにも有名である。
▲ 小林 はくどう : ヴィデオ作家
1968年、緑の布をかぶってユーモラスに動くロボット「はくどうマシン」は大阪万博に展示される。71年EATのメンバーとして4都市をテレックスで結び、コミュニケーション・ゲームを実施する。72年にはコミュニケーションのズレのビデオ作品を発表。東京ビエンナーレ、NY近代美術展、シドニービエンナーレなどにも参加。
▲ 柴田 和 : 環境美術
1963年、読売アンデパンダンで出品拒否になる。翌年から空間創りを街中に移す。その空間に不特定多数の人が参加すればなんらかの環境が生まれるという趣旨の環境美術を提言する。評論家のヴラスタ・チハーコーヴァー、石崎浩一郎、ヨシダヨシエの賛同を得る。環境芸術(美)と環境デザイン(用)をコラボし両者が概念として落ち合う視覚でモノを見出す作業であった。
プロフィールは全てパンフレットより
写真は柴田 和の旭出國日本姿図/1965年に座る秋山祐徳太子。
展覧会は
2015年4月20日(月)〜 5月2日(土)
ギャラリー 川船 : 中央区京橋3-3-4-B1 03-3245-8600
11:00〜19:00 日/祝休廊
____________________________________________
ハピポな個展
19 Jan. 2015 神宮前
谷口広樹(康彦)さんの個展に初めてお邪魔した。
ESSEの前身リビングブック時代(30年以上前?)に柔らかいイラストでお世話になっていた谷口広樹(康彦)さんの個展にお邪魔した。
インクジェットを含めて様々な画材を使っての作品展。
やはり原画はいい。人柄が出ていた。
個展で一番面白いと思って撮ったこの絵↑について、谷口さんがFBにこんな事書いてました。
この絵↓なんですが、写真を撮ったあと、手を入れたら、なんとどんどんひどくなっていき、これでもか、これでもかと苦心惨憺たれどもよくならず、それでも愛着がどこかあり、展示しております。この写真と比較していただくのも面白いかと思います。タイトルにその足掻きの結末が…。
そうだったのか、
もう一度行かなきゃ!
芸大つながりでもう一つ思い出した。
谷口さん、田中紀之さん、日比野克彦さんはほぼ同級生で?・・・
院生時代のタナカノリユキさんにはエキストラモデルのバイトをお願いした記憶があるんだけど。
今じゃ考えられないキャスティングだった。
1月31日(土)まで谷口広樹個展「花」
GALLERY HOUSE MAYA + MAYA2
東京都港区北青山2-10-26
tel 03-3402-9849
_______________________________________________________________________________
21歳、ドキドキのハピポ
多摩川の河原に蛍光ピンクで東京都と神奈川県の県境をペイントした
雲野耀弘さんとの出会いと撮影が現代美術への興味を加速させた
6 Sep. 1969 銀座
1969年頃よりフーテンの聖地、新宿凮月堂に通い出した僕は
1968年の毎日現代美術展で入選した新進作家の雲野耀弘さんと出会った。
彼からその年の夏に地図上にある東京都と神奈川県の県境を直接多摩川の河原に
蛍光ピンクの水性塗料で描く企画を聞いた。
蛍光塗料のシンロイヒ工業から石油缶サイズのペイントをいくつか提供してもらい、
8月1日〜3日までテント持参で黙々破線を描き続けた行為を撮影した。
これはサンケイ新聞出版局写真部で学生バイト時代に徳川夢声責任編集の
月刊随筆サンケイ/1969年刊のグラビア連載企画「1億分の1」シリーズ3、
“ムダ”に生きるという企画で掲載された。
凮月堂ではコンセプト・アーティストでフーテンのガリバー(安土修三)や
街頭パフォマンスの芥正彦さん、アングラ映画の旗手宮井陸郎さんや小林はくどうさん達と
ある日生まれたアイデアが、美術手帳の特集「行為する芸術家たち」に掲載された
「ハプニングGINZA 1969」。
美術手帖 1973年12月号「行為する芸術家たち」に掲載
1969年9月6日の土曜日の午後、銀座4丁目の交差点で服部時計店の時計が2時をさした時に
ビニールコートされた紙袋に入れた赤、青、白、黄色のポスター・カラーの水溶液10ℓを
交差点内に置いた。
信号が変わると動き出した車のタイヤが路上にアートを広げていく過程を、
大学の研究室から借りたアリフレックスの16ミリフィルムで屋上から撮影した。
『Happening GINZA1969』は主にハプニングと呼ばれていた表現行為でアースワークとか
コンセプショナル・アートとか言う人もいた。まだ21歳の学生だった。
真昼のハプニングとして翌日曜、朝日新聞都内版のニュースに
▷六日午後二時すぎ、銀座四丁目交差点の車道に白、赤、黄、青色の絵具のような塗料が流された。
走り回る車で、たちまち道路はいちめん抽象画風になった。
現在では滅多に出会うこともない自転車と大八車が銀座の交差点を渡っているのが印象的!
▷知らせでかけつけた築地署員が水を流して洗い"道に描いた絵"は約十五分後消されたが、
人波でごったがえした土曜日午後の、ハプニング。あっという間に人が集まった。
▷ 塗料は、ビニールの買物袋に入れてあり、交差点の曲がりかどの、ちょうど車が通るところに
ぶちまけられた。「道交法でいう路上の危険物とは違うから、お そらく取締りの対象にはならな
いだろうが、それにしてもなんのために・・・」と同署員は首をかしげている。
写真は路上にまかれた塗料(銀座四丁目交差点 で、鈴木一成さん撮影)/ 朝日新聞 1969年9月7日
16面東京版、より
百科事典のパフォーマンスの項に取り上げられた
銀座4丁目交差点におけるパフォーマンス。
1969年9月西田圭介と久民(きゅうみん)は、赤、青、白、黄色のポスター・カラーの水溶液を銀座
4丁目の交差点の4か所にぶちまけた。そこを通る自動車のタイヤがローラーのかわりをすることに
よって、自動的に各色が路上に広がって美しい模様をつくりだし、その場所を非日常的な空間に変え
た。 この写真は、当日西田圭介が16ミリフィルムで撮影したもの。/ 写真は『日本大百科全書 19』
ENCYCLOPEDIA NIPPONICA 2001 小学館 1988年1月1日初版第一刷りより
Happening GINZA 1969
撮影はアリフレックス16ミリフィルム。Sound / ローリー アンダーソン
_____________________________________________