メディアに掲載されたNEWSなポートレート
各界の方々にお会いして、お話を聞いて、感じて、撮影させていただいた
ニュースなポートレートとエピソードをご紹介します。
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安藤忠雄さん :
06年2月11日に安藤忠雄さん設計による表参道ヒルズがオープンした。
ケヤキ並木を超えない高さ、屋上の緑化、吹き抜けの周囲を地下3階から地上3階まで
緩やかに登るスパイラル・スロープは表参道の斜度と同じだという。
人々の記憶に残るケヤキ並木と同潤会青山アパートの風景を次世代につなごうという
壮大なプロジェクトは、高さのみを競う従来の再開発プロジェクトとは
一線を画すアンチテーゼを掲げた建築家を事務所の外階段で撮影した。
Straight, 06年3月号/扶桑社
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アラン・パッサールさん:Alain Passard
1956年フランス・ブルターニュ地方ゲルシュ生まれ。
1986年パリに「アルページュ」をオープン、87年にミシュランの1ツ星、88年に2ツ星、
96年に40席ほどの小さな店だったにも関わらず、シンプルで独創的な料理で3ツ星を獲得。
火の使い方に精通し「肉の魔術師」と呼ばれていたが、
99年頃より自身の農園で野菜を育て、野菜料理の新しい可能性に傾倒し
2001年より一転して野菜料理のスペシャリテとなり
野菜コースのみのフルコース等で話題となった。
東京プリンスホテルのパークタワー33階のレストラン「プリーズヴェール」が期間限定で
アラン・パッサールさんプロデュースのお披露目当日のキッチンでお茶目な人柄を撮影。
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金子光晴 さん:
吉祥寺の街をご一緒に散歩しながら取材をさせていただきました。
駅ビルの喫茶店で居合わせた女性たちへの賛歌がすてきな金子光晴さんでした。
1895年生/1975年没
随筆サンケイ / 産経新聞社出版局
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六代目 三遊亭圓生さん :
徳川夢声責任編集の産經新聞社出版局発行「随筆サンケイ’78現代の顔」で数日間同行取材。
凛とした眼差しに芸に対する厳しさが伝わってきた。
※タイトルは新字体表記のため三遊亭円生。
1900年生/1979年没
随筆サンケイ「’78現代の顔」 / 産経新聞社出版局
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スティーブ・ウィンさん:Steve Wynn
「ラスベガスのホテル王」「ラスベガスを換えた男」
「大人のエンターテインメント界のウォルト・ディズー」。
カジノリゾートの世界で、最大級の賛辞を独占している男、スティーブ・ウィン。
ラスベガスの最高級ホテルの代名詞である「ベラッジオ」ほか、
「ミラージュ」「トレジャー・アイランド」などを作った男。
彼がそれら所有ホテルを売却し
「僕の夢そのものともいえる、史上最高のホテルを作る」と宣言し
「ウィン・ラスベガス」は華々しく幕を開けた。
インタビュー嫌いで有名なスティーブ・ウィンさんを
取材する為にインタビュアー、ライターそして私は編集&カメラとしてラスベガスに向かった。
撮影は15分の約束だったが、部屋に入って来た彼を社長デスクの脇で撮影開始。
その1分後に
「もう十分だろ」
と言われ撮影終了。
全部で7カット。
撮影時間1分だった。
インタビュー写真はアメリカのバニティーフェア(VANITY FAIR)と
日本のStraight,05年12月号の2誌のみの貴重な写真。
Straight,05年12月号/扶桑社
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ギャート・クナッパーさん : Gerd Knäpper
「人は節目を迎えるごとに冒険が難しくなる」
24才の誕生日を迎えた1972年の早春、
西ドイツからやって来た陶芸家ゲルト・クナッパーさんを取材に益子を訪れた。
5歳年上のクナッ パーさんは1965年にアメリカ・ニューアーク美術館で作陶を学び、
世界35カ国を巡りながら加藤唐九郎、濱田庄司、バーナード・リーチを訪問し、
68年 島岡達三の援助で益子で修行・築窯。
1971年 第1 回日本陶芸展で最優秀作品賞、文部大臣賞を受賞。
日本脱出を漠然と考えていた頃、
取材中の会話で背中を押してくれたクナッパーさんのアドバイスは
『人生の節目を迎えるごとに冒険が難しくなる』
『結婚すると一つ冒険が出来なくなり、子供が産まれるとまた冒険が難しくなる』
愛妻のキエさんとの新婚生活をスタートしたばかりのクナッパーさんの言葉に
大変な説得力を感じた。
『考えていても何も始まらない! 行動しなきゃ』
これをきっかけに日本脱出は73年の5月頃と決め
海外への足がかりを求めて動き出した。
インターネットも海外旅行情報誌もましてや渡航費用の蓄えも全く無い時代の
ヨチヨチのフォトジャーナリストが目指したバックパッカーの
格安世界一周写真旅のブログはこちらから。
1943年生 / 2012年11月2日没
週刊サンケイ / 720218号
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田辺一鶴さん :
「ころは元紀三年、壬申(みずのえさる)年十二月十四日、ポンポポンポン。
甲陽の武田大僧正信玄は、ポンポポンポン。甲府において・・・」
張り扇の音も高らかに調子のいい声をはりあげる講談も落ち目になった1972年の1月には
本牧亭も店じまいした。
その後日本特有の話術芸能、二百七十年の歴史に終止符をうつなんてことは、
先輩たちにも顔向けできない。
なんとしても残していきたいと、三十七名の協会員全員が、懸命の定席さがし。
そのかいあって四月、東京・浅草の貸しホール「やまと」に定席を構えることができた。
しかし、定席は復活しても客足は相変わらず。
協会の神田山洋会長みずから大道にでて呼び込みからビラ配り。
無理なお願いに快く応じていただけた「ひげの先生」田辺一鶴さん
『釈台を前に張り扇をふりまわす時代はもう去った。
これからは大道芸人であった講釈師の原点に立ち戻らなければいけません。
そこから新しいものを生みだしていくのです』」と、
銀座の歩行者天国の大活躍を撮影。弟子の夕鶴を通じてポルノ講談も生んだ人だ。
1929年生/2009年没
週刊サンケイ / 720526号
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リビングブック(現エッセ/ESSE)の表紙を飾った読者モデルたち
1981年10月7日「リビングブック」(現エッセ、ESSE/扶桑社)を創刊した。
フジサンケイグループ会議 総合出版委員会が1978年11月10日に立ち上げたプロジェクトが
答申した生活に役立ち、主婦目線でニーズと関心に答えるのが編集ポリシーだった。
プロジェクトを委嘱され会社設立、編集、デザイン、撮影と
30代の全エネルギーを注いだ雑誌だった。
読者参加企画の主婦を表紙に起用!
毎月多くの応募者からオーディションをし選ばれたすてきなミセスさんでした。
LivingBook(リビングブック/現 ESSE)/ (株リビングマガジン(現 扶桑社)
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